映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』感想 ~ もはや芸術作品だ。
観よう観ようと思いつつも二年ほど先延ばしし続けてきたアニメ映画を観た。
攻殻機動隊シリーズのアニメ第一作目、押井守監督の映画。
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』
二年前に観た神山健治監督の『攻殻機動隊 SAC』シリーズは私の中でも格別に素晴らしい作品として位置していて、脚本、作画、CG、演技、音楽、諸々のすべてを取って私の中で最高級のものだ。
特にSACシリーズ一作目の『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』は「笑い男事件」の完成度の高さ、トグサという存在の使い方、タチコマというAIの進化とゴーストの存在、どれもがここまで素晴らしく作用するとはなんて綺麗な作品なのだろうと何度観返しても感嘆ばかりで、未だ事件の詳細や彼らの会話の全てを理解しきれているとは言い難い中でも、素晴らしい作品とだけは言い切れる。
攻殻機動隊は原作を軸にしたパラレルワールドとして多くのアニメが存在すると思っているが、今回、押井守監督の映画を見て、神山健治監督の世界観はあの入り組み様であってもやはり大衆向けのアニメなのだと感じた。
必要な説明や感覚的な理解を促す要素をセリフや絵に丁寧に組み込んであり、仮に視聴側にその内容を言語化できる理解力や複雑な事件の全てを把握するほどの視聴意欲がなかったとしても、大枠で何をしているか何が壁か何を目指しているかが伝わるよう作られている。
その親切さを最低限に抑え、「無」の中の余白を作り出したものが、今回観た押井守監督の映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』
エンターテインメントではない、もはや芸術作品だ、アートである。
作中のセリフはかなり少ないように感じた。
アクションや電脳戦も見せ場として存在する動きは(少なくともSACよりは)かなり少なく、記憶に強く残っているのは草薙素子と流れる街の風景。
絵画のような映画だった。
緻密にぼやけていて、非現実的なほどリアリティがあり、作り物のように手触りがある。
映し出される街の風景のみで視聴者に時間の流れやストーリーの裏にある音をすべて預ける。
説明的なものが口にされることはなく、素子の思想をその少なな言葉から辿ることは蜃気楼を掴んでいるような心地だったが、それこそが素子が果たしてどうして人間と言い切れるのか、どうして彼女は草薙素子であると確定できるのかという疑問を体感させられているような感覚でもあり、観ていくにつれ素子と感覚を共有していながら融合はできていない不完全な融解点にいる心持ちになったりもした。
タチコマという要素でその点に一つの答えの選択肢を提示したSACとは違った有意義な感覚だった。
読み解こうとすればするほどに同じ問いを辿り違う問いを見ては、ゴーストとは何を持って「個」になるのか、広大な世界から切り取られた一幕でひとつの人生を覗き見したような、それでいてひとつの人生の全てを見たような、水中で水面を眺めながら空に浮いている気持ち。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。
引用の仕方として間違っているのだろうなとは思う。
私はニーチェの哲学を学んではいないため(近いうちにでも著書を読んでみようと思っている)言葉としてしか知らない一文だが、額面通りに捉えて勝手に意味を感じるのならば、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』においての素子を見ている時は、深淵をのぞいたミイラが深淵に取り込まれていく感覚に陥った。
彼女がサイボーグだからといって私と何が違うだろう。
現実の中で幻を生きている感覚な私とて、ゴーストの在り処と己という個は何を持って人との境界線を得ているのか分からない。
私が人間だからといって人形使いと何が違うだろう。
今こうして書いていて、小娘である自分をいっそ嬉しくさえ感じる。
18年生きた。己のゴーストはまだ囁かない。
囁くのはいつなのだと焦りを感じることはある。
ただ、思考の余地も変革の可能性も死の価値も自由だ。
広大な世界に生きているのだから、己の足をしかと理解していけばゴーストの在り処を見つけられるだろう。
そう信じてみろと囁くのがゴーストなのかどうかも、いつかは。